私が22歳で2年生の担任を初めてもったときも、
1学期の算数の単元に「とけい」が出てきました。
「とけい」の学習理解度は、
子どもによって、まったく異なりました。
子どもによって、というよりも、
子どもの生活体験によって異なるのです。
その単元を学習する前から時計が読めていた子。
単元を学習し終わっても、読み方に自信がない子。
大学を卒業したばかりの私は
学習内容が定着していないのに、
テストを実施することが怖くて、
「とけい」の学習内容をひたすら復習し、
テストの実施を延ばしていたら、
「時計は大人になったら、読めるから大丈夫。
テストした方が良い」と
先輩にいわれ、
やっとテストを実施しました。
当時、
「クラス全員100点とらないといけない」
と思っていました。
でも、今でも本当は
「全員に100点をとってもらうくらい理解度を上げなければいけない」
と思っています。
ある先輩は、
「全員が100点取れるように教えているんだよ」
と子どもたちにおっしゃっていました。
私はその言葉の通りだなと心から思いました。
「授業時間が足りなくて、子どもの理解が追いつかない」など理由はいくらでもつけられるけれど、(←一理ある)
学校の学習内容は国で決められている
最低限の教養だと私は思っています。
「みんなで社会をつくっていくために、
ここまでの知識や思考を身につけておこうね」
ということを
一通り教えることが大事だと思っていました。
「みんな一通りのベース(基礎)をもって、
ベース(基礎)の上に自分の思いをのせて、
良い社会を築こうね。」ということ。
子どもたちを画一化する場所のでなく、
子どもたちとベース(基礎)を共有する場所
だと思っています。
私がいつも思うのは、
「1クラス20人にしてほしい」
1クラスあたりの人数を減少させるだけで、
基礎学力の定着にかける時間、
子ども一人あたりと話す時間が増え、
プリント配布や給食配膳、
採点の時間短縮になり、
すべてにおいて
教員の働き方改革になると思うのです…。
今回、コロナでわかったことは、
学校=親から離れて子どもの面倒をみる機関
学校≠教育機関と思いました。